株式会社岩田母型製造所
(現株式会社イワタ)
元社長・髙内一様の
ご逝去に際して

株式会社岩田母型製造所の元社長であり、株式会社イワタの元取締役でありました髙内一(たかうちはじめ)氏が病気のため7月12日にご逝去されました。享年95歳でした。ここに生前のご厚誼を深謝するとともにご家族のご愁傷を拝察いたし、心よりお悔やみ申し上げます。

髙内氏は1947(昭和22)年11月に株式会社岩田母型製造所に入社。まもなく日本語の活字母型を機械彫りするためベントン彫刻機の導入と改良に従事し、母型の高精度化と大量生産を実現させました。同じころベントンを使用して開発した「岩田書体」が広く受け入れられ日本最大の活字母型工場に成長させました。当時の岩田明朝体はデジタル時代の今になってもなお「イワタ明朝体オールド」として多くのお客様に愛用されています。

その後1969年(昭和44年)3月に創業者岩田百蔵のあとを継ぎ社長に就任。2001年(平成13年)10月に株式会社イワタエンジニアリングと経営統合させ、株式会社イワタに商号変更した後は取締役に就任。弘道軒清朝体のデジタル化などに尽力されました。

イワタを退任された後も活字研究会の会長として多くの研究者・愛好家と積極的に交流。活字文化の継承に尽力されました。エンジニア出身らしく技術系の話になると妥協せずとことん議論し尽くす一方で、老若男女分け隔て無く接する氏の周りには自然と人が集まっていたことが印象的です。あらためてご冥福をお祈りいたします。

ここに髙内氏ご自身が書かれた株式会社岩田母型製造所との関わりの文章を紹介いたします。


1947(昭和22)年10月23日、岩田母型は個人経営から法人に改組しました。東京都大森区新井宿六丁目の八百坪の敷地に、事務所、製版工場、電解槽室、仕上工場、マテ材倉庫、鋳造工場、自家発電所の七棟を新築。従業員も増員され70名が働いていました。

ちょうどその頃、私は旧国鉄の鉄道技術研究所工作部根岸グループに所属し、ラッセル車の改造や関連パーツの設計などに従事しておりましたが、当時、岩田母型で営業部長をしていた父方の従兄に当たる角田一郎氏に誘われて、1947(昭和22)年11月3日、法人化したばかりの岩田母型に入社しました。奇しくも明治節にあたる日でした。

岩田母型には、営業部のアシスタントとして迎え入れられました。電胎母型の納期遅延のお詫びに対応する辛抱の日々でしたが、手の空く時間は電胎母型の製造工程を勉強しました。名人と呼ばれた母型仕上げ職人・長谷川仙一氏の作業はとくに、その技術を把握するよう励みました。

そうして約2ヵ年が過ぎた1949(昭和24)年秋、印刷業界に新しい時代を引き起こす出来事が訪れたのです。ベントン彫刻機の見学会です。ベントン彫刻機を国産化した株式会社津上製作所が毎日新聞東京本社において性能発表するという情報と招待状を、岩田母型の社長であった岩田百蔵が入手したのでした。即日、社長から「おまえが適任であるから出席するよう」と命令が下りました。見学会に出席し、「次世代はこれだ!」と心動かされた私は、会社に戻るなりベントン彫刻機二台の発注を社長に進言しました。

当時、ベントン彫刻機一台の価格は850万円。2台で1700万円。相当高価な投資でしたが、よく社長は納得して発注してくれたと感動しました。絶対に成功しなければならないと心に誓った次第です。

翌年、1950(昭和25)年、その後の岩田母型を進展させるベントン彫刻機2台がやってきました。もしこのときベントン彫刻機が入荷していなければ、私は職業を他に求めていたことでしょう。ベントン彫刻機は、私の人生に希望を導いてくれたといっても過言ではないと思っています。


在りし日の髙内氏